沖縄本土復帰50年.帰京

2022・5・15(日)

今朝のお目覚めの名曲はロンドン交響楽団によるケテルビーの”ペルシャの市場にて”。
小学生の時、大好きな曲の1つだったな。
あの頃の自分は放送部で毎日たくさんのレコードをかけて自らも楽しんだ。
未だCDなんてなかったな。LP ,EPの時代。でも音は良かった。

今ほど物が溢れ欲しいものが何でも手に入る時代ではなかったけれど、便利な物も新しい物も知らなかったから不服を感じる事はなかった。
家で大きなステレオを買ったときは嬉しかったな。
やがてテレビやワープロなど欲しいものがいっぱいになって、次から次に新しいものになり追いついていけない。

PCやスマホの時代になった。
電子機器を使いこなせい内に年齢を重ねた。
キャッシュレスの時代になって、手元に現金がなくても欲しい物が買えてしまうので使いすぎてオロオロする。

一人の生活に自信がなくなって東京の娘の所に転がり込んだけれど、カードケースには病院のカードとポイントカードがいっぱい。
定年後は何とか年金で暮らせるかと思っていたけど、差別に有った時代の女性の年金なんて僅かなもの。
オペラやコンサートに行く事なんて中々出来ない。ディナーなんて猶更の事。

まだ若い時、海外の友人を訪ねて、また国際ソ
ロプチミストの会員になって海外に行く機会や交流に恵まれた。
海外からのホームステイを受けれて長い間交流を続けた。
今は自由に体も動かず資金不足もあってもう何処へも出かけられないけど、少しでも若い時に得た経験交流は私の過去の栄光であり、宝物。

東京に住むようになっても、継続中の消化器科、腎臓内科、眼科、歯科、外科の診療には沼津。三島に通う。
なるべく予約日を近くにして頂いて、沼津の家の管理と日本語教室には月1~2回だから参加する。
循環器科は急を要するので東京の大学病院に転院した。

月に1~2回でも沼津に帰ることは必要でありまた楽しみでもある。
教会も大森に転入ししたけど、コロナだったし、沼津に来るとなかなか行かれない。
でもZOOM礼拝に参加できるし翌日にはYOUTUBEでも見ることができる。

生活は苦しいけれど、暮らしやすい世の中になったかな。
ウクライナの人たちの事を考えると何か申し訳ないけど。
1日も早くこの戦争が終わり地球上から永遠に戦争が起こらないことを願う。

午前中は玄関前を履いたり,植物の点検。
アマリリスの蕾が膨らみ,柏葉紫陽花が咲き始め,グロリオーサが随分丈を伸ばし、美央ヤナギにも蕾が。
クチナシも大きくなって居た。

アボカドも枯れる事なく,サンルームの植物達はみな元気だった。
此れから夏本番になると心配。
今日は帰るから,たっぷり水やりして雨戸を閉めお帰り支度。

今日は沖縄本土復帰50周年。
私も若かった30代の手前だったな。あの当時良く”沖縄を返せ”と声を合わせて歌っていたもの。
本土に復帰しても本土並みにはなかなかならなかった。

以前として日本の7割を占める米軍基地の街。
基地の街だけど、美しい海、珍しい文化や食べ物などに私は憧れていたけど、日本画のお稽古に行っていた時従姉から自分は絶対に沖縄には行きたくないと言われた。同世代に女学生が大勢殺されたのよ・・・・ひめゆりの塔の話。
旅行大好きな一回り違う夫も、決して沖縄だけは行きたいと言わなかった。

でも定年後体調を崩し一人では出かけられなくなった夫と2人で沖縄に行ったのは、あの首里城消失前の年だった。
那覇空港で搭乗を待つ時、此処は何処だかわかる?と尋ねたら蒲田駅と答えた夫に涙が出た。
夫の記憶は生まれ育った蒲田が鮮明に残っていたのだ。

沖縄、異国情緒があって、文化に溢れ美味しい食べ物にも恵まれ、海が綺麗。美ら海というのだそうな。
音楽も三線、音階も琉球音階・・・・踊りや紅型の織物。シーサー・・・・。
”沖縄を返せ”と歌っていた時から50年が経った今日、私の頭の中にはあの当時の自分が巡っている。

昼頃,ゆったり在来線の旅。
順調に蒲田駅に着いた。
娘が迎えに来て居て,スカイブリッジを通って帰宅。

夕食後は映画を2本。
"秘密への招待状"と"麗しのサブリナ"。
オードリーの歌うシャンソン"ラビアンローズ"は素敵だった。

"鎌倉殿"を見て休む。
あまり疲労感もなく,神様に守られ,今日も無事に過ぎた。
お休み前の音楽はオケで,ブラームスの"チェロソナタ"。





ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント